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シャイの物語

Shai Miranda Verter

シャイ・ミランダ・ヴェルテル
1992年12月9日~1997年9月2日

シャイの物語は母親である私、フランシス・ヴェルテルから始まります。シャイが生まれる前、私はNASAで天文学の研究に従事し、順調にキャリアを積んでいました。1992年、父を亡くした私はシングルマザーになることを決意し、父の思い出に娘をシャイと名付けました。

シャイは生まれつき骨盤に癌性腫瘍(横紋筋肉腫と呼ばれます)がありましたが、生後8ヵ月になるまで発見されず、11ヵ月になるまで正しく診断されませんでした。その頃には肺に転移していました。こうして1年半にわたる癌治療が始まり、3つの病院を転々とすることになります。シャイは3週間に1回の化学療法を受けたあと、何度も感染症に罹り、輸血を受けました。12時間に及ぶ手術により、残存腫瘍が3つの内臓とともに摘出されました。その後、ブラキセラピー(放射性のインプラント)を含め、数週間の放射線治療を受けました。

このような辛い治療の間もずっと、シャイは元気いっぱいでした。癌を抱えた子どもには畏敬の念すら覚えさせる回復力があります。昨日どんな痛みを経験しようと、明日どんな痛みを味わうことになろうと、子どもには今この瞬間を生きる力が備わっているのです。私たち大人は、子どもの頃にはあった、ストレスとともに生きる力を取り戻そうとして残りの人生を過ごします。私は、病気の子どもがいる家族たちがこれまで歩んできた人生に関係なく、みな同じ思いを抱いていることも知りました。

シャイの性格がよくわかるエピソードがあります。ある日、私はシャイとティーンエイジャーの見舞い客を病室に残し、衣類を持って洗濯室に向かいました(私はシャイの入院に備え、車のトランクにいつもスーツケースを入れていました。シャイと私はそのスーツケースで何週間も生活することもありました)。私がいない間に医師が病室に来て、シャイを検査しようとしました。シャイは医師に、ママがいなければ誰も検査しちゃダメ、ときっぱり断りました。医師は魚の形をした小さなライトでシャイのご機嫌を取ろうとしました。シャイはしばらく医師と一緒にそのライトで遊ぶと、それちょうだい、と言いました。それから礼儀正しく、お帰りになる時間ですよ、と言ったそうです。私が病室に戻ると、見舞い客はシャイが医師をあしらう様子に、お腹がよじれるほど笑い転げていました。シャイは自分の思いどおりにしないと気が済まないうえに気が強く、痛みに耐える力が強い子でした。シャイの外見からは、内に秘めた強さを想像することはできないでしょう。

治療の間、私たちはさまざまな形態の慈善団体から支援を受けました。たとえば、1994年には1年のうち計5ヵ月、私はシャイと病院で過ごしました。大学宇宙研究協会(USRA)の同僚からの休暇寄付のおかげで私は職場に残ることができ、健康保険の適用を受けることもできました。さらに、NASAのゴダード宇宙飛行センターの同僚が継続的な献血をコーディネートしてくれたため、シャイの輸血はすべて指定された供血者から得ることができました。

化学療法を終えると、シャイは完全寛解に至り、物語はハッピーエンドを迎えるように思われました。シャイは同い年の子どもたちと一緒に保育園に通い始め、私は最後に資金提供を受けた研究計画の遅れを取り戻そうとしました。その頃、私はシングルファーザーの男性と出会い、婚約することになります。私たちは1996年のハロウィーンの日に結婚しました。その6日後、シャイは「二次性」白血病と診断されました。以前の癌治療によって誘発される白血病の一種です。

今度は幹細胞移植が必要になりました。臍帯血移植は当時、一般的な治療法にはなっていなかったため、適合する骨髄ドナーを探すことになりました。シャイの父親と私は民族的背景が異なり、偶然にもシャイはきわめて珍しい組織型(HLA型)を受け継いでいました。国の内外を問わず、何ヵ月もかけてようやく、適合するドナーを見つけることができました。シャイと私はその期間の大半を小児病院の隔離病室で過ごしました。

シャイの身体はすでに、多くの化学療法と放射線治療によって無理を強いられていたため、骨髄移植にはきわめて高いリスクがありました。移植から10日後、シャイは肝不全(VOD[=肝中心静脈閉塞症]と呼ばれるもので、それまでにも2回発症したことがありました)に陥りました。私たち家族はオンコロジーチームに呼ばれ、狭い会議室に招き入れられました。お子さんはこのままでは亡くなってしまうでしょう、と言われる部屋です。考えられる手段として、大量の血栓溶解薬を投与し、肝臓にできた血の塊を溶かす、というものがありました。出血で死んでしまうおそれがありましたが、そうしなければ間違いなく肝不全で死ぬという状態でした。私たちは血栓溶解薬を試みることにしました。その後、数日間にわたり、ほかに記録に残されたどんな子どもよりも多くのtPA製剤が投与されました。シャイは回復し始めました。しかし、今度は心不全(心筋症)を発症してしまいました。

シャイはICU(集中治療室)に移されました。きわめて不安定な状態であったため、1時間ももたないと告げられました。でも、シャイは死にませんでした。その夜を乗り越えられるとは思われませんでした。でも、シャイは乗り越えました。私たち家族は、移植後の多臓器不全は100%死に至るため、生命維持装置を止めた方がよいのではないかと忠告されました。長時間の話し合いの末、シャイが闘い続けたいと思っているように見えるかぎり、生命維持を続けることを決断しました。シャイは少しずつ回復していきました。シャイはICUから出て、その後、退院してドナルド・マクドナルド・ハウスで生活することになります。医師と看護師はフィラデルフィア小児病院(CHOP)の所在地にちなみ、シャイのことを「34番街の奇跡」と呼びました。  生命維持装置を止めようと考えた腫瘍科医は何かを悟り、「どうなるかわかっているなどとは二度と言うまい」と告白しました。

再び、シャイの物語はハッピーエンドを迎えるかと思われました。しかし、白血病が再発し、シャイは自宅でホスピスケアを受けながら、家族とペットに囲まれて息を引き取りました。あのICUの奇跡は、長くは続かないものだったとしても、なぜシャイに起きたのでしょうか。

そこから、私の第二の人生が始まりました。私はすぐに妊娠し、40歳の時に2番目の娘ショシャナ・リオールを、42歳の時に3番目の娘ガブリエル・アヴィシャイを出産しました。天文学のキャリアは断念しました。病院で過ごした時間によって完全に計画が狂ってしまったことと、家族のことにもっと専念したかったことが理由です。私はNASAと契約している業者からサポートの仕事を引き受け、気候モデルを運用するグループのためのコンピュータプログラミングに従事しました。

第2子の妊娠中、私的に臍帯血をバンクに預けることを決心しました。私は適合する移植ドナーを見つけるのがどんなに大変か身をもって経験しており、ベストマッチが家族から得られることも知っていました。2人目が癌を抱えて生まれてくると思っていたわけではありませんが、子どもたちには考えうるあらゆる形の健康保険を掛けておきたいと思ったのです。1998年に米国で利用できた民間臍帯血バンクをリサーチする取り組みは、ウェブサイトParent's Guide to Cord Blood(臍帯血に関するペアレンツガイド)の立ち上げにつながりました。最終的には全世界の民間バンク、次いで、提供を受け付ける公的バンクを追加することとなりました。あとはご存知の通りです。このウェブサイトは、私が見果てぬ夢のなかで想像していた以上に有名になり、多くの時間が費やされるものとなりました。2007年、私は理事会を招集し、501(c)(3)財団として法人化することを決定しました。

シャイの物語は私自身の物語の延長であり、シャイの経験の多くは、最善の治療プロトコールを見つけて、それを実現できる病院を訪ねることを決心した母親がいたことによってもたらされたと言えるでしょう。私は今でいう「メディカルツーリスト」でした。しかし、シャイの魂と人生から、私ひとりでは決して学べなかったであろう多くのことを学び、私の人生は別の道に導びかれました。今では、臍帯血をバンクに預け、臍帯血治療を利用したいと考える親のための消費者保護団体となることが私の使命となりました。親たちを助けるには特別利益団体からの圧力に耐えなければならないこともあります。目に見えないレベルでは、死の影の谷を歩いてきたひとりの母親によって運営されていることが、この財団の強みなのです。